多久タイ捨流

肥前でもっとも弘流したタイ捨流であったから、いろんな径路をもって相伝されても不思議ではない。多久のタイ捨流も、武雄-佐嘉-多久という径路をとり、ついには村主多久長門守茂族にいたる系譜のものがある。

丸目蔵人太夫(藤原長恵)-木島弥介(源清)-木島弥介(源淨)-千地岩六左衛門(藤原政宣)-中野甚右衛門(藤原就明)-山領善右衛門(平明真)-山領圓左衛門(平言利)-山領主馬(平利昌)-山領兵衛(平直武)-鍋島坦叟(藤原敬文)-藤山又右衛門(藤原種徳)-蒲原久平次(菅原李林)-藤山治兵衛(藤原種愛)-多久長門殿

万延元年庚申六月吉日

この巻物の巻頭には、タイ捨流が丸目蔵人によって創始された段階では、古い諸流、ことに新当流(鹿島新当流)や影流(新陰流の源流)などの諸流をもとにしたという由緒が述べられ、佐嘉本藩の中野甚右衛門から山領四代を経て、ついにはのちの藩主鍋島直正も相伝したことがわかる。

この時点でタイ捨流は一つの格式を得ることになったわけで、以後、蒲原久兵次ち藤山治兵衛から多久邑主多久長門茂族への相伝が実現したことを物語っている。

肥前兵法タイ捨流は明治期に一度途絶えてしまい、二度目の相伝は平成の初期頃、今は亡き13世山北竹任宗家が佐賀県多久市の剣道教士七段・谷口國雄氏に伝え「肥前多久タイ捨流道場 聖風館」を設立するも、是れも残念ながら途絶えてしまった。

(佐賀新聞 平成七年九月三日)